フィルター自撮りを一生理解できない。

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SNOW/Snapchatの犬フィルターで自撮りをプロフィール画に設定している人びとを理解できない。何が彼らをそうさせるのか。可愛さ、美しさ、美醜。犬フィルターだけではない、目を大きくしたり美白にしたり、誰か何が目的なのかを教えてくれ。

 

 

可愛さ。美しさ。そんなものは消耗品となってしまった。流行っているメイク、髪型、ファッション。今、良いとされている外見を追い求めて、追い求めて、残ったものは異常なまでの若さと美しさへの信仰と執着だ。老いに抗い、どこにもない正解を求め続ける。他人と比較し、自分はbetterでありたいと思う。社会が作り上げた美しさの答えのために。求められなくなってしまうのが怖い。

 

自分を見つめる時間が足りなかったのか、他人を気にしすぎて忘れてしまったのか。だけど生まれ持った姿は変わることがない。先日こんな女性と出会った。笑顔が素敵で美しい女性だ。20歳の彼女は、自分を5/10点だという。なぜかと聞くと、パッとしてモテるような外見でも目立つような見た目でもないという。なんだか悲しくなってしまった。彼女には美しさの基準と答えがあって、自分はそうではない。そのせいで自分に自信を持てないのだ。私は「美しくなりたい。」そんな想いは誰もがもち、素晴らしいものだと思っている。美しさを求める欲が文化や伝統を作り上げたとさえ考える。

 

しかし、美しさは他人が求めるものに寄り添って生まれるものではない。それは自身の内側から現れる。自分自身を受け止め、自分の欲を見つめ、それを表現するだけだ。自分の中でベストを尽くし、自信を持てばもうあなたは10/10点だ。それが美しさだ。美白、二重、小顔、身長、体型、それらは誰かが作り上げた嘘っぱちの美だ。フィルターを捨てて、まず自分の素の姿を受け止めてほしい。そこにあなたの本当の魅力の種があるのだから。

中止署名20万超、Netflixオリジナル「Insatiable」ー SNSが娯楽を殺す未来。

公開中止署名20万超

https://tvseriesfinale.com/wp-content/uploads/2018/08/insatiable-netflix-season-1-viewer-votes.jpg

Netflixオリジナルドラマ「Insatiable」が8月10日に公開された。賛否両論というよりは否が多数を締めながら炎上している。なんと公開前の2分間のプロモーション映像だけで、公開中止を呼びかける署名が22万も集まったそうだ。

批判を承知でいうのならこのドラマはもはや「Stranger Things」のコメディ版とも思える。80s favoriteをふんだんに詰め込んで一つの作品に作り上げたStranger Thingsに対して、2010s favoriteをふんだんに詰め込んだゴミ箱をひっくり返して散らかったフロアをInstagranフィルターに通したものを、これがコメディだと言い張っているような気概を感じた。

おおまかなプロットは、肥満でいじめられっ子女子高生Pattyがひょんなことからダイエット成功、たまたま出会った弁護士でミスコンのコーチを過去に勤めていたBobと知り合う。様々な困難を乗り越えて果たしてミスアメリカになれるのか、というありがちなシンデレラドラマを、正に今のアメリカをバカにしているような毒々しいジョークと皮肉で包み揚げたコメディドラマだ。多分。
ありとあらゆるティーンドラマに出てくる考えうるシチュエーション、シングルマザー、デブいじめ、ホモフォビア、LGBTQ、アルコール、薬物、浮気、悪魔信仰で洗脳をしようとする彼氏、自殺、自己否定など、二郎ましましの胃もたれするような内容が12話に詰め込まれ、このなんとも言えないアメリカ地方都市郊外ビュッフェがたまらない。




なぜこんなに炎上しているのかGurdianの記事を読んでみた。
www.theguardian.com

1. デブに見せる特殊衣装での撮影はよくない。

記事は
『痩せた女優がデブのトランス男性を演じた「ラブ&タグ」、白人女性がアジア人主人公を演じた「攻殻機動隊」の炎上からもうこれはNGとなったはずだ。デブを使いたいならデブの女優を使うべきである。』

『特殊衣装-fat suits-はデブをなんだか異常なものであると扱っている。そんなのはおかしい。デブは偉大なデブネスで存在するし、それはもう毎日かかってこいよ!という感じである。』

なるほど。平等のため、全ての人が自分の人種と体型にもとづいた選ぶことで俳優業の平等を目指していこうという話だ。と思ったら、なんだか空回りしている。そもそも平等の話もせめて人種くらいに止めればいい。ドラゴンボールの実写化のドドリア役の俳優が、容姿が一致していると認められた自信をもつ世の中は難しい。特殊衣装がダメなら、モーションキャプチャーからCGで太ったその女優を作り、デブ星人と呼べば問題解決だ。ディズニーもそうしている。いつからこんなに娯楽がセンシティブになったのだろうか。近頃こんな話ばかり聞く。

2. 痩せた理由が。顎の手術。

『痩せた理由が。。。顎、の、手術。過食の人がみたらどれだけ傷をつけるだろうか。毎日鏡で体型を気にしているような、10代の若者がみているのだ。』

このショーはコメディだ、10代の若者もそのくらい理解しているだろう。

3. デブは悲しいいじめられっ子、痩せたら美人で全て手にする。

『痩せたら、美人で幸せでモテて、復讐に燃え、強い少女になる。に加えて悲しいいじめられっ子な自分つき。』

こんなのメガネとったら美人っていう漫画と一緒だろう、テンプレ展開だ。この調子だとアメリカでドラえもんは放映できない。メガネでいじめられっ子のび太ドラえもんが現れて助ける話も、メガネ=いじめられっ子のイメージを10代の若者に植え付けるからダメ。それだけでなく、オレンジの服を着て、歌が下手な子はいじめっ子というイメージを植え付けるからNGだ。



SNS時代の速さと恐さ

22万の反対署名が公開前に集まった。一昔前は公開された後友達とあれはダメだなで終わっていたことが、今や一月も経たずに22万だ。今回は公開中止されることはないが、公開前に役者の人種が違うことで中止になった作品も多数ある。表現狩りはまだ始まったばかりだ。ネチケット(死語)では、絶対に名前を出さない、お金を使わないなんてルールがあった。半年ROMらないと書き込んではダメ、なんてルールもあった。時代は変わった。

この炎上をも狙ったコメディだとしたら、このドラマの最高のオチだ。

アートは芸術、美術ではない。

アート、art、芸術、美術、アートをみたいと思ったら美術館へいく。それがアートである。私たちには幼い頃から芸術のクラスがあり、書道を学ぶ。美術には教科書があって、100万年前から人類が積み上げてきた叡智と文化を映し出す鏡である。それは崇高であり、人間を人間たらしめ、歴史を作り上げた。人々の頂に立ったものはこぞってそれを集め、誇示し、それはさらに美術の魔力を高めた。

 

しかしアートと美術は同じものではない。アートは美術となりえるが、全ての美術がアートではないし、全てのアートが美術ではない。私は言語学の専門家ではないが、artという言葉は「手」であり「創造」であることは違いない。art, artist, article, artifice, artifact, artisan, artificial, 無数のアートは全てそこには人がおり、手があり、創造がある。そして、「魂」がある。言い換えれば、手があり、創造があり、魂があればそれはアートである。例えば今電源を指しているブタ鼻のコンセント穴だって、無限のアートたり得る。電圧の波をディスプレイしてもいいし、壁の中に埋まっている全ての電気のコードをおもてに出してどれだけ人間が電気に包まれているかを表現してもいい。1分の電気を使うために必要な生物資源の量、どのような流れで発電所から流れてくるかを表現してもいい。ただ必要なのはそこにアーティストがいて彼らが魂を、何かの思いを表現すれば全てがアートなのだ。

そしてこの手と創造と魂こそが人間である。金や社会や人間関係ではない。何かを思う心と手と創造することが出来る。アートであるアーティストだ。

 

では誰がアーティストたり得るのか。全ての人間だ。私の母だってアーティストである。アル中でほとんど家へ帰らず父親を全く勤めなっかた父の反面、仕事に勤めて彼女の魂を尽くした家族がある。完璧ではないかもしれないし、それはどこぞの誰に向けた表現ではないが、その思いを受け止める人間がいて、心のどこかが動かされた。父にも彼の苦労があり、彼の思いをどこかでみせ誰かの心を動かしたことがあるはずだ。そうやって100万年もの小さな思い、魂、アートが繋がったものが私たちだ。誰が評価しようがしまいがアーティストである。それがたまたま多くの心にひびき美術、芸術と称されるに至るかもしれない。

 

この文章を読んだのなら、ただこれだけのことを考えて、今週末は美術館へ足を運んでみてはいかがだろうか。アーティストになったあなたは新しい何かを見つけるかもしれない。入場料を払ったのなら携帯の電源は切ってしまおう。裸になった魂と魂を感じ合おう。パンフレットや展示盤に書いてある物語は気にせずにそこにある物と対話しよう。私はピカソより普通にラッセンが好きとは言わないが、ラッセンに心を動かされるあなたも素晴らしい。その思いが次のアートへ繋がっていく。

 

年々消えていってしまう無垢なアーティストたち、命さえあればアートはある。道が見えないなら、そのネガティブな自分と向き合って、心を怒りをこの世の中にぶつければいい。けれども、この文章がネットの海に誰にも気づかれずに沈んでいくように、この世の中は人間が生きるには早すぎて、取り残されて消えていってしまう。しかし、私は私の出来る最低限であり最高のアートである、生きるということだけは失わない。