アートは芸術、美術ではない。

アート、art、芸術、美術、アートをみたいと思ったら美術館へいく。それがアートである。私たちには幼い頃から芸術のクラスがあり、書道を学ぶ。美術には教科書があって、100万年前から人類が積み上げてきた叡智と文化を映し出す鏡である。それは崇高であり、人間を人間たらしめ、歴史を作り上げた。人々の頂に立ったものはこぞってそれを集め、誇示し、それはさらに美術の魔力を高めた。

 

しかしアートと美術は同じものではない。アートは美術となりえるが、全ての美術がアートではないし、全てのアートが美術ではない。私は言語学の専門家ではないが、artという言葉は「手」であり「創造」であることは違いない。art, artist, article, artifice, artifact, artisan, artificial, 無数のアートは全てそこには人がおり、手があり、創造がある。そして、「魂」がある。言い換えれば、手があり、創造があり、魂があればそれはアートである。例えば今電源を指しているブタ鼻のコンセント穴だって、無限のアートたり得る。電圧の波をディスプレイしてもいいし、壁の中に埋まっている全ての電気のコードをおもてに出してどれだけ人間が電気に包まれているかを表現してもいい。1分の電気を使うために必要な生物資源の量、どのような流れで発電所から流れてくるかを表現してもいい。ただ必要なのはそこにアーティストがいて彼らが魂を、何かの思いを表現すれば全てがアートなのだ。

そしてこの手と創造と魂こそが人間である。金や社会や人間関係ではない。何かを思う心と手と創造することが出来る。アートであるアーティストだ。

 

では誰がアーティストたり得るのか。全ての人間だ。私の母だってアーティストである。アル中でほとんど家へ帰らず父親を全く勤めなっかた父の反面、仕事に勤めて彼女の魂を尽くした家族がある。完璧ではないかもしれないし、それはどこぞの誰に向けた表現ではないが、その思いを受け止める人間がいて、心のどこかが動かされた。父にも彼の苦労があり、彼の思いをどこかでみせ誰かの心を動かしたことがあるはずだ。そうやって100万年もの小さな思い、魂、アートが繋がったものが私たちだ。誰が評価しようがしまいがアーティストである。それがたまたま多くの心にひびき美術、芸術と称されるに至るかもしれない。

 

この文章を読んだのなら、ただこれだけのことを考えて、今週末は美術館へ足を運んでみてはいかがだろうか。アーティストになったあなたは新しい何かを見つけるかもしれない。入場料を払ったのなら携帯の電源は切ってしまおう。裸になった魂と魂を感じ合おう。パンフレットや展示盤に書いてある物語は気にせずにそこにある物と対話しよう。私はピカソより普通にラッセンが好きとは言わないが、ラッセンに心を動かされるあなたも素晴らしい。その思いが次のアートへ繋がっていく。

 

年々消えていってしまう無垢なアーティストたち、命さえあればアートはある。道が見えないなら、そのネガティブな自分と向き合って、心を怒りをこの世の中にぶつければいい。けれども、この文章がネットの海に誰にも気づかれずに沈んでいくように、この世の中は人間が生きるには早すぎて、取り残されて消えていってしまう。しかし、私は私の出来る最低限であり最高のアートである、生きるということだけは失わない。